くそにっき

くそやろうが自制するためのにっき

いましめのにっき

私はほんとに、気を抜いて話すと他人を傷つける

 

人は話す時、たいてい正論や解決策なんて求めていない。共感、傾聴。

私は自我欲がつよく、人と自分の境界線をよく忘れ、自分の価値観を正解だと思い、それを思いっきり伝えてしまう。

いけない。人はそんなものを求めていないし、言ってはいけない

書き出して自分を抑える。

調子が良い日が続くと、つい忘れてしまう。毎日書かないと。読まないと。私は人を傷つける愚か者。誰も私の解決法や価値観は知りたくない。人はみんな自分を肯定してもらいたいし、話を聞いてもらいたい。忘れてはいけない。私は本当に愚かなクソ野郎。

 

あと、私の役割でないのに音頭をとりたがる、でしゃばりたがる

きっといい気しない人が沢山いる

ほんと、良いとこどりしようという、せこい考え方。出しゃばってごめんなさい。気をつける。し、書く。書いて落ち着かせて、頭を冷静にして行動する。

 

自分の幸せの精度


物事にも美味しい期間と言うのが存在するんじゃないだろうか?とおもった。しかも、それは一人一人ちがう。

 


それをしている瞬間幸せを感じて、毎日それをし続けたい!と、思っても毎日やってみるとなんか違うなって思うことがある。でもそれってそれが向いて無いとかそんな大きな事ではなく、やる期間とか頻度が多すぎる?少なすぎる?みたいな感じなんじゃないだろうか。

 


温泉もたまに入るから至福な時間であって、毎日入ると普通の風呂で、でもその普通の風呂に入るの好きな人もいれば、少し疲れた時に温泉に入ったあの解放感を好きな人もいる。

 


1番自分が、幸せに感じられる長さと頻度と負荷があるんじゃないかと思う。

 


だから、やるからには極めないととかそういう思い込み捨てた方が良いかも。楽しいから毎日、四六時中やらなきゃいけないものでもない。

時々行って、好きだなあでもじゅうぶんおっけい。

 


そこの、見極めの精度をあげればめちゃくちゃ幸せに近づくんじゃないだろうか?

例えばどんなタイミングに昼寝をしたら私は幸せに感じるか?

なんかこう、細かく自分をメンテナンスする。分析して。

ドラクエも毎日やりたいだけじゃなくて、15分くらいに止めて持ち越すとか。旅行もずーっと行きたいわけじゃなくて、たぶん好きな頻度があるんだろうし、遠出じゃなくてリフレッシュできる場所があるし。スポーツだって毎週が1番身体動いて楽しく感じるかもだし、でもそこまで動くと今度は変な競争意識わいてきて楽しく無くなるからもしかしたら2週間に、1回くらいが1番楽しいかも。

その瞬間の感情と盛り上がりも大切だけど、もう1歩視点をひいて、どこでこれを与えると毎日が楽しくなるのか冷静に考えてみる。

周りに流されず、自分をじーっくり観察すると、私なりの頻度と期間とタイミングや負荷が見つけるかもしれない。それはみんなそれぞれにあって、この情報社会で、自由とか好きなこととか、とても素敵な生き方を目にしてしまうと焦って飛び立ちたくなるけど、まずは外じゃなくて自分のそういう精度をあげなきゃ、なかなか自分なりの幸せにたどり着かないのかも。と思う晴れた夕方。

ぼちぼちでいいのか

 

 

最近思うのは肩の力が抜けてぼちぼちでいいんじゃないかということに気が付き始めた。

何者かにならないといけない、何かすごいことを、人からいいねをもらえることを、羨ましいと思ってもらえることをしないと、とか色々

 

とりあえず力が入りすぎていた。やるからにはでっかくしないと、上手くやらないと、世間からおっと評価をもらわないと、みたいなしがらみがあって、結局のところ自分が何したいかがその気持ちに覆われてよく分からなくなっていた。

 

世界一周すると豪語してたけど、1週間くらいの旅行を4カ国くらい行ってみれば十分だった。行ったけど、楽しさもあったけど何かが違う?ようは世界一周が夢だったわけではなく、それをした自分をみんなに凄いと言ってほしいという浅はかな承認欲求だった。

 

周りからの評価で自分を生きようとしていた。自分の人生は自分でコントロールするとあんなにも、声高らかに宣言してたのに。今までの自分では周りは良しとしてくれないから違う自分にならないとと焦ってた。そうか、たぶん焦ってた。

 

 

世界一周ブーム(笑)が終わると、今度は仕事バリバリブーム。私がいないといけないんだ、ここは私が仕切る!!頑張る!!仕事で成功するのが私の生き甲斐!幸せ!!って力んでたけど、インフルで休まざる得なくて、1週間のんびり家事して寝て、ドラマ見て、あれ幸せじゃない?ってなった。その日の夜ご飯の唐揚げがめちゃくちゃ美味しくできて、うわ美味しい!幸せ!ってなった。

 

たくさん焦ってでっかくなろうと色々したけれど、結構、私の人生って地味でぼちぼちな感じなのかもしれない。でも、なんかそれも悪くない。と、ひとつ自分の殻がポロッと脱げた1週間だった。

 

勝手に孤独を選ぶ

 

インフルになった。

どこでもらったかなあ。

出勤停止で、来週まで休み。この判断に私はギリギリまで迷った。

いや、普通は休まなきゃいけないんだけど頭が冷静になれず私が休んだら皆が困るし迷惑かけるし、だから内緒で行こうなんていうテロリストな考えにまで至った。ほんと、自意識過剰すぎるし、自分のことしか考えてない相変わらずのクソ野郎な私。

 

色々考えて結局休むことに。仕事のチームで話し合って、明日からの作戦を立てる。今日の有様を聞いても他のチームは助けてくれないと、私は1人で怒りメラメラ。メラメラで、勝手に落ち込み攻撃欲が増してきた。

なんで、助けてくれないの?なんで、私たちは助けたり気を使ったりしているのに、相手は返してくれないの?結局私は孤独なの?どうせ利用されてただけ?

なんかイライラして変なヒステリックな気持ちが湧き上がる。

もとはといえば体調崩した私が悪いのかもしれないけど、ロボットじゃないし人間に絶対なんてありえない。そもそも人が体調崩しても休めない職場はやばいよねという所に落ち着く。

 

じゃあ、もう一歩先はなんだろう?

落ち込んでヒステリックに周りを攻撃的に見て孤独にふけるのもひとつかもしれない。

けど、そこで感情にのまれるよりも、それをぶつけるよりも自分の望みはなんだろうか?

 

それは、私がいない間他のメンバーを助けて欲しいこと。だったら、状況を説明し1時間でも2時間でも良いから手伝いをお願いする。私は自分の自己管理の出来なさを謝り、休み明けは菓子折りを持って行く。

そこに、ここまでしないと助けてくれないとかそういう変な負の感情を拾い上げない。それは本当に必要だろうか?

 

噂とか、かもしれないとか、らしいよとか不確定なものを信じやすい私は、今までも勝手にそうして孤独を深めてきた。

ちゃんと、伝えて、謝って。それでダメならダメで良いんじゃないだろうか。自分の作り出した怖さに惑わされて自分の本当の望みは何かを見間違えてしまいそうになる。本当はどうして欲しい?それへの最短ルートは何?相手の読めない心や、自分かわいさの感情や勝手な憶測が邪魔してない?

 

全ては書くことで色々解消するんではないか

 

私はコミュニケーションが苦手。

もう、それは幼少期から。何故だろうと何回も原因を考えても、全然解決に至らずいつも孤独を感じる。

上手に周りとあわせられず、焦って話したり自分を知ってもらいたい見てもらいたいという欲をだしては失敗し、ひどいときは人を傷つける。

 

一時期はもう孤独で生きていようと決めたりもしたけれど、やはり他者との関係を築くのも必要だという考えに落ち着く。

 

 

今まで私には友達がいない。

まず、友達の定義を考える。

私の中の友達はなんでも話せて、どこでもすぐ一緒にいけて、困った時は助ける。言葉にすると普通だけどその1つ1つに求めるレベルが高かった。

なんても話せる→本当になんでも。自分の隅から隅まで知って受け入れてほしい

どこでもすぐ行けて→めちゃくちゃどこでも。しかも私の行きたい所、

困った時は助ける→命まで助けるレベル

 

ここまで分析して思う。

期待しすぎで、重すぎて、やばい

これを根底にもってたから人とのコミュニケーションをとるときに、ぎこちない。要は求めすぎているし、わがまま。

そういう、欲求は自分で解決しないといけない。と気がつく。

私の感情や考えを認めろとばかりに話しても誰も楽しくない。それは自分で処理する。こんなふうに独りよがりに語る。それだけで、話す時に相手の話をちゃんと聞ける。相手は何でもかんでものアウトプットの場ではない。よく人の話題を自分の話題にしたがってたが、それは自分のアウトプット欲を消化してないからだ。だから、頭に浮かんだ考えや感情は極力、携帯メモやノートに書き出す。それだけでいい。

 

行きたい所も書き出す。やりたいことも、1人で本当に行けないか?それを確認する。人が必要な時は誘う。でも、なんだろうか。私が行きたいからというのを伝える。そこに執着しない、だって理由は私が行きたいから。人のせいにしない、私がそうしたいから誘ったと自覚する。相手は寂しさを埋めるクッションではないし自分を楽しませてくれるおもちゃでもない。それを本当はもっと早く理解しなければ行けなかったのに。今まで傷つけてしまった人達ごめんなさい。

 

そして、問題にぶつかり、助けが欲しい時もノートに書き出して整理する。何が必要か。それは相手が必要なのか、1人で出来ることか。相手が必要であれば具体的に自分は何が欲しいか等。自分のわがままを聞いてくれるとかを、助けと勘違いしないようにもする。私はそこを勘違いしがちだった。自分のケツは自分でふく。それを人にしもらいたいと本当に愚かに思っていたし、そういうことをしてくれるのが友達だとか、思っててまじでクソ野郎だった。

ほんと、今まで関わってくれた人々ごめんなさい。求めて求めて、わがままに当たって勝手に自分で拗らせ孤独になっていった。全ては、私のお子ちゃまな考え方。本当、気がつくの遅いわ…って感じ…

 

あと、私は勝間和代さんの利他心についての動画に感銘を受けた。損得ではなく、自分の出来る範囲で相手を助けていく。人からもらうより、常に自分から相手へ。

あと最後に人間は多面的だということも忘れない。1つだけで全てを判断しない。私も多面的。この場では話すほう、この場では聞き役、この場ではおちゃらけ、この場では大人しい。どんな自分があってもいい。全て同じテンションやキャラでいなければいけないという思い込みは捨てる。そうではなく、常に相手に敬意を払い傷つけないということを一貫させる。テンションやキャラじゃない。相手に敬意を。そして相手の見えない裏側があるということも理解する。人は、人の数だけ性格も考えも違う。それを意見交換するのがコミュニケーション。相手を従わせようとか、何とかしてもらおうとか期待や欲望をぶつけてはいけない。そういうものは自分で消化させる。人との、会話はインプットとして考える。

 

 

 

 

 

しの体験

あの場で上手く言葉に出来なかったモヤモヤとした感情はなんだったか。1日たった今でも消えないのは何故か。一つ一つ整理してみると、1つの気づきが。

私は死というものに、現実味がなかったのである。人が死にゆくなんて当たり前だと思っていたし分かりきっているという顔をしていた。が、私の理解力ではどうやら人は死ぬらしいという噂程度のものだった。

 


永遠というのはないという。絶対というのもないという。

そういうことはたくさんの人の言葉から聞いていたし、世間の常識で知っていて当然のような。知るのと理解するのとでは違うのかもしれない。

 

 

 

私は大切なものを可視化してしまった。大切だと思う気持ちに気がついてしまって恐怖が湧いた。

そこについて深く考えることが怖くて、その選択肢達はそうそうに消してしまった。本当の核に迫るものは怖くて見れなかった。

 


あの場でのシェアが恥ずかしく感じるのは自分が自分の知らぬ間に嘘を吐き心を見ようとしなかったから、かもしれない。一時の感情のうそを大衆に晒し、そして恥ずかしくて後日落ち込む。私らしい。が、その落ち込みのおかげでここまで考えられた。この性格も悪くない。最初の1発では上手くいかない性格も年齢を重ねる度に向き合い方が分かってきた。